1988年秋、米海軍の駆逐艦が東京湾沖で海上保安庁の巡視船をめがけて射撃訓練をしていたことが判明した。
模擬弾であり、仮に被弾しても実害はないというのがアメリカ側の説明だったが、重大な主権侵害には違いない。

所管の石原慎太郎運輸大臣が米海軍に正式に抗議しようとしたら、外務省から
「騒ぐ必要はない。こんなことは沖縄ではよくあることではないか。これは『官邸の意向』でもある」
との横やりが入った。

事務方からそれを聞かされた石原大臣は即座に、官邸の守り主である小渕恵三内閣官房長官本人に電話してあらましを伝えたところ、
「けしからん話だなぁ。それはもうアナタの好きなようにやってよ」
もちろん首相官邸は、意向どころか射撃訓練自体を報されていなかった。

運輸省で大臣の緊急記者会見が開かれ事件はメディアの知るところとなり、米海軍はただちに謝罪、駆逐艦の艦長は更迭された。

後日の閣議で石原運輸大臣から顚末が報告されると、完全に蚊帳の外に置かれて面目を失った宇野宗佑外務大臣が
「あの木っ端役人どもがっ!」
と激昂したと伝えられている。

30年近くも前のこととはいえ、官僚というのは「官邸の意向」などというもっともらしい言葉で総理大臣の権威を傘に着て、都合のいいシナリオを書く生き物なのだということを証す挿話といえる。

最近、文部科学省の内部文書とされる紙片が流出し、安倍総理大臣が新しい獣医学部の創設に圧力をかけたのではないかとの報道がなされているけれど、上述の例を引くまでもなく、「総理のご意向」との文字があるからといって、本当に総理がそう思っているのかは全く別の問題だと理解する必要があろう。

余談ながら、石原慎太郎は上述の一件と、同年に成田空港への在来線乗り入れを電撃的に決断したことで、運輸官僚や記者クラブからの評価が一気に高まり、本人もトップの責任の取り方と官僚の操縦術を体得し、後の都政で開花することになったという。

 

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