僕が通っていた幼稚園はカトリックの教会付属で、クリスマスには生誕劇を演るのが習わしだった。

年長の時、不意に僕は男性最高位のヨゼフを演じたくなり、先生のところに出向いて
「僕、ヨゼフさま演りたい!」
と直談判に及んだ。果たして、役は僕に回ってきた。

先生が
「ミズノ君は、神様に托卵された女を押しつけられる影の薄い大工を演じるだけの実力がある」
と判断したとも思えないから、僕が欲しいものを手に入れたのは、僕自身が行動を起こしたおかげ、というほかない。

情実人事との誹りは免れないだろうが、もしも僕が
「オレがヨゼフに一番ふさわしいはずだ」
「実力でいえばオレが一番だ」
と勝手に妄想して、先生が自分を指名してくれるのを待っているだけだったら、果たしてヨゼフ役は回ってきたかどうか。

時は流れ、僕は私立のいわゆる進学校に通い、学期の初めには「実力試験」という、出題範囲のないテストがあった。
ここで良い点を取れる生徒は、丸暗記ではない本物の学力、すなわち実力が備わっているということになるのだろう。
しかしながら、実力試験の点数がどんなに良くても、実際の大学受験で合格しなければ、その実力なるものは全く意味を成すまい。実際、僕の同期でも、十二分な実力がありながら第一志望を滑ってしまったり、更に浪人しても行きたい大学に行けなかった人はいた。

つまりは、それだけの資格が備わっているという意味での実力と、結果を残して欲しいものを手に入れるという意味での実力とは、全くの別物ということにはなるまいか。

そして、実力が評価されるというのは、後者にたどり着くために自分から行動して、結果を手繰り寄せられるという点に尽きるのではないか。

時には水面下の交渉で周囲を出し抜いてでも欲しいものを手に入れなければ、自己評価だけで結果の伴わない「実力」なる指標を掲げても何の意味もないということを、これからの人生でも自戒しておく必要があると思う。

 

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