きょう8月24日は、田中静壱陸軍大将の命日。
マッカーサー記念室として現在も残る第一生命ビルの部屋は、戦前・戦中は石坂泰三(後の東芝社長・会長、経団連会長。当時は第一生命社長)が執務した部屋であったが、戦争が激化する中、陸軍に接収され東部軍管区司令官としてこの部屋に収まったのが田中大将だった。
陸士第19期(今村均と同期)・陸大第28期(板垣征四郎、山下奉文、下村定らと同期)。陸大優等卒業の栄典としてオックスフォード大学留学を許され、米国駐在武官時代にはダグラス・マッカーサー参謀総長とも親交があったスーパーエリート。
昭和20年3月に東日本の本土防衛を担う東部軍管区司令官に就任するも、直後から始まった東京大空襲で帝都は壊滅。5月の空襲では宮城まで被災。進退伺を出すも、陛下ご自身が慰留されたと伝えられる。
8月14日。昭和天皇のいわゆるご聖断により、日本の敗戦が確定した日。田中はやおら副官に声をかけた。
「阿南大将がどのように自決なさるか聞いて来い」
副官が陸軍大臣官邸を訪れ来意を告げると
「武士の作法に則り、十字に腹を切って頸動脈を切る」
「介錯はどうなさりますか」
「そんなものは要らん。そんなに旨く人の首を切った奴などおらん」
報告を受けた田中は
「そうかー、やっぱり切腹か。俺も阿南さんみたいに旨くやれればいいんだが、腹を切るのは痛そうだなぁ」
そして、その夜いわゆる宮城事件が発生。田中司令官は丸腰で宮城に乗り込んで反乱軍を鎮圧。クーデターは失敗に終わる。
前後して、阿南陸軍大臣は宣言通り官邸で切腹し、翌朝報せを受けた東郷外務大臣は
「そうか、腹を切ったか。阿南というのはいい男だな」
と称賛したと伝えられている。
玉音放送が無事に流れた8月15日夕方、蓮沼侍従武官長侍立の下、田中は陛下の拝謁を賜る。
「今朝の軍司令官の処置は誠に適切で深く感謝する。今日の時局は真に重大で色々の事件の起こることは固より覚悟している。非常の困難のあることは知っている。しかし斯くせねばならぬのである。田中よ、この上ともしっかりやってくれ」
天皇陛下は臣下の者に「ご苦労」はよく言われる(最晩年の開腹手術の際も、執刀医に対して「この度の重責はご苦労である」とのお言葉があったとされる)が、陸軍のトップでさえない人間に「深く感謝」とは極めて異例のお言葉だった。
陸軍の一部の反乱行為は8月15日以降も散発していた。その最後となる8月24日のNHK川口放送所占拠事件を鎮圧した夜、田中は司令官室において拳銃で自決。享年57。
辞世「聖恩の忝けなきに吾は行くなり」
ワシントンでの知己だったマッカーサーがその部屋に乗り込むのは、終戦からちょうど1ヶ月経った9月15日のこと…
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