朝6時に起きる。眠くてたまらないが、妻のつくる朝食を取る。成田まで見送りに来てくれる妻を伴って、タクシーで東京駅へ。成田エクスプレスは首都圏では例外的に割高なA特急料金を取る割に、座席がボックスシートであったりして、とりわけ妻の評判は芳しくない。長野五輪の際に投入された改良型車両は新幹線と同等の内装に改められているのだが、今回乗った車両は初期型だったのでがっかりする。とはいえ、座ってしまえば眠ること以外の仕事はなくなり、眼を醒ます頃には空港第2ビルに到着する。



空港にやってくるたびに、中学の頃初めて読んで衝撃を受けた吉岡 忍・著 『墜落の夏』の一節を思い出す。

空港ロビーの明るく、新しさがざわめく雰囲気は、一人ひとりの境遇や事情や思い込みをいっそう漂白し、均質にみせる。それだけに空港ロビーは、一人ひとりの乗客にとっては、自分の見たいものだけを見、きどりたいようにきどることができるステージとなるのかもしれなかった。(中略)新しさがざわめく、明るい空港ロビーを通過してきたばかりの乗客たちを襲ったパニックは、ビジネス世界の先端に身を置いて、冷静で沈着なはずの男たちの表層を、残酷にめくった。しかし、一人ひとりの実質がむきだしになるときも、輝くものを失わない人がいる。(中略)<ビッグ・ビジネス・シャトル>のなかでは、乗客のだれも仕事のことを書き残さなかった。だれひとり、仲間や上司や部下にあてた遺書やメモを残さなかった。文章が発見されたかぎりでは、そうである。いきなり死に直面したとき、乗客たちがとっさに書いた文章の内容は、死にたくない、というぎりぎりの言葉と、家族にあてた愛と惜別の言葉だった。それしか、なかった。そうだったのだとすれば、空港ロビーにあふれるあの新しさのざわめきと、軽く高揚した気分とは何なのだろう。陰影のない明るさと、高度なテクノロジー・システムのただなかにいることの気配。その雰囲気と、ビジネス分野の先端で、きびしい競争をつづけることの緊張感とは、たぶん波長があっている。遺書に残された言葉は、その背後で、新しさや、先端にあることや、競争に夢中になることの、あやうさと儚さを語っているように、私には感じられた。そんなものをきどるよりも、ずっと大切なことがある、と。もちろん、それは、だれもが自覚していることに違いない。競争に追われ、小さな勝利に満足し、ささいな敗北にがっかりする、そんな日常のくり返しのうさんくささは、だれもが気づいている。しかし、気づいていながら、表層を飾り、きどってふるまい、関係のなかの孤独を耐えることのほかに、どんな日々の暮らし方があるのか?

今ではこの文を暗誦できるほど何度も読み返した本だが、この作品に出会っていなければ、僕もグランドスタッフやスッチーに殊更威張ってみせるおっさんたちと同じ人種になっていたかも知れない。飛行機に乗るからといって偉いわけでも凄いわけでもない。生きることの本質を見極めなければ…… 今回の出張は役員の随行ということもあり役員と同じフライトに乗ることを命じられ、日航以外の選択肢がなくなってしまった。長蛇の列を抜けてチェックインをすると、若い職員が実に手際良く作業をしてくれて気持ちが良い。彼女に限らず、空港の職員は胸にゲート・パスを下げているが、貼られている写真が当の本人とは別人のような顔立ちをしていることが多い。あまり化粧をした顔写真にすると識別が難しくなるのか、それとも現場で働く時のメイクが特殊なのか、はたまた訓練か何かの最中に写真を撮っているのか分からないが、興味深いところではある。ターミナル内のスターバックスで一服してから妻と別れて出国する。免税店が「ナリタ5番街」と称して大幅に拡充されていて楽しい。第一ターミナルの「ナリタ・ナカミセ」に勝るとも劣らない。日航405便はB777-200。これまでパリ便といえばジャンボと決まっていたので、新しいフリートは楽しみでもあり、双発機になってしまうことがやや寂しくもある。機内で役員や他の同行者に挨拶をして、座席に落ち着く。離陸前に、時計をフランス時間に改めておく。こうすることで、自分に暗示を掛けて少しでも時差ボケをなくそうという魂胆なのだが、そんな暗示を寄せ付けないほどの睡魔に教われ、離陸すると程なく眠ってしまう。ボーイング777は、その設計段階でエアラインの意見を取り入れて機内設備を検討する”Working Together”なる試みをしており、その中で、「ジャンボ機のトイレの座面とフタはいつもバタンと閉まってしまい、音が響いてお客様の迷惑になるので改良できないか」と日本の航空会社が提案したところ、「これぞ日本人の感性」と、これまでそんなことを考えもしなかったボーイングを唸らせ、直ちに採り入れられたという。トイレに入ってみると、確かにフタにアブソーバが仕込まれていて、手を離してもゆっくり下りてくる。よく眠ったせいで、12時間のフライトも苦にならず、パリには定刻に到着。荷物を受け取って、ゲートを出ようとすると税関職員に呼び止められる。1992年に初めてフランスにやってきて以来、ここで足止めを食うのは生まれて初めての経験。
「パスポートを見せろ。どこから来た?」
「トーキョー」
「目的地は?」
「マラボ。赤道ギニアの。」
「えっ? じゃあいつフランスを出るんだ?」
「明日の朝ですが、何か。」
「っていうかお前フランス語上手いなぁ」
こんなやり取りの後、結局荷物は開けることもなく開放される。空港内のホテルに移動。5年ぶりのシェラトンホテルはあまり変わっていない。空港構内の“Brasserie Flo”で夕食。学生の頃は、こんなレストランには近寄らず、ターミナルの反対側にあるハンバーガーショップの“Quick”にしか縁がなかったのだが。店に入ると、英語のメニューを渡されたため、フランス語のを所望したところ、役員に怪訝そうな顔をされる。フランス語の方が分かり易いんです、と言っても世間一般の理解は得にくいだろう。鴨のローストを食べる。ホテルに戻り、先輩社員とサシでお酒を飲んでから部屋に戻る。長い一日が漸く終わる。

沈まぬ太陽〈1〉アフリカ篇(上)
山崎 豊子
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