(承前)
1945年(昭和20年)春、既に日本の敗色は決定的だった。米軍の沖縄上陸を受けて小磯國昭内閣が瓦解したのち、次の総理大臣に誰を据えるべきか、重臣達は頭を痛めていた。


大日本帝国憲法の下では、首相は議会で選ばれるのではなく、その任命は重臣ら推薦に基づいた人物を天皇が皇居に呼んで
「朕、卿に内閣の組織を命ずる」
と言い渡し、これに対して新首相は、もちろんその場で閣僚の人選は出来ないので
「暫時猶予を頂きたく」
と回答して組閣作業に入るのが通例であった。
しかし、今回ばかりは重臣たちが会議を重ねても、人選は難航を極めた。東条英機は同じ陸軍の畑俊六大将(元帥)を推し、陸軍の意に適う人物が総理にならなければ
「陸軍がそっぽを向く」
と思わず本音を漏らした。しかし、
「畏くも天皇陛下の大命で組閣する総理大臣に、そっぽを向くとは何事か!」
岡田啓介に一喝された東条は沈黙せざるを得なかった。そして、平沼騏一郎が推薦する形で、かつての海軍軍令部長にして侍従長を務めた鈴木貫太郎海軍大将に大命が下ることになった。既に齢78。不死身の鬼貫と言われ、2・26事件でも決起将校らから銃弾を浴びつつ生還した御仁である。
宮城に参内した鈴木貫太郎に天皇は、ゆっくりと口を開かれた。
「卿に組閣を命ずる」
天皇のお言葉に対して長い沈黙が流れる。
そして、鈴木は、いつもの紋切りではなく
「この一事だけは、どうかお許し願いたい」
と固辞を申し上げたのであった。まさに異例中の異例の事態に、侍立する藤田侍従長もたじろぐ。
鈴木は、明治天皇の軍人勅諭の通り、「軍人は政治に関わってはならない」という信念に基づいて、大命を固辞していた。しかし、天皇は微笑んで仰せになった。
「鈴木の気持ちは良く分かる。しかし、この危急の時にあたって、もう今の世の中に人はいない。頼むから、どうか、気持ちをまげて、承知してもらいたい。」
帝国憲法下において、神聖にして侵すべからざる天皇陛下の命令を拒むことも超異例ならば、帝国憲法下において組閣を命令する立場にある陛下が「頼む」と仰せになるのも超々異例のことであった。
陛下直々のお願いに鈴木も折れ、ついに総理就任を受諾するのであった。そして、鈴木総理は老体に鞭打って、真っ先に自ら市ヶ谷台の陸軍省に向かった。あの男を陸軍大臣にするために。
(つづく)

怒り宰相小磯国昭
怒り宰相小磯国昭

posted with amazlet on 06.08.29
中村 晃
叢文社 (1991/05)