20年前の8月12日。当時小学3年生だった僕は、翌日からの箱根旅行を控えてウキウキしていた。そんな中、テレビが突然ニュース特番に切り替わり、旅客機が消息を絶つとの報道が始まった。騒然とする日航本社の廊下が映し出され、何やら凄いことが起きたらしいということだけは、子供にも分かった。翌日、到着した富士屋ホテルのロビーに備え付けられたテレビの前には黒山の人だかりが出来ていた。墜落現場の上空映像が映し出され、操縦不能を繰り返す交信記録が読み上げられていた。「現在位置は名古屋まで72マイル。名古屋に着陸できるか」「羽田に帰りたい」「磁方位90度を維持せよ」「だが、現在操縦不能」「リクエスト・ポジション」「熊谷から25マイル西の地点です」「横田への着陸も可能になっています。意思を聞かせてください。」「……………」通常の4倍に達する揺れに翻弄された乗客、懸命の操縦を試みたコックピット・クルー、冷静に訓練通りの旅客対応を続けた客室乗務員…… 土砂降りのような報道が連日なされていたが、当時の僕は、飛行機が怖いというよりも、当たり前に暮らしている生活が、一瞬にして瓦解し引き裂かれることへの恐怖の方が大きく感じられていた。生まれて初めて飛行機に乗ったのは、それから2年半後、修学旅行で九州に行った時のこと。よりにもよって、往復とも事故機と同じ日航のB747-SRであった。以来、数え切れないほど飛行機に乗ってきたが、幸いにして一度も事故には遭っていない。自分が犠牲者になどなりたくはないが、不意に人生の最終ページがめくられることになった時、自分はどれだけその事実を受け入れることが出来るのだろうかと、考える時がある。