昨年1月、高度38,000フィートの上空を飛んでいたマレーシア・トランスマイル航空の副操縦士が脳腫瘍から突然意識を失い、関西空港に緊急着陸するというインシデントが起き、その報告書がまとめられたとの報道です。
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記事によると、副操縦士が突然意識を失い、体中が痙攣したことにより両足で方向舵が連打されてしまい機体が大きく揺れるなど、相当に緊迫した様子であったようです。そして気になるのは、緊急着陸した関西空港で、救急車の手配が遅れて搬送に1時間近くを要したという記述です。日々真剣に働いている人たちには申し訳ないけれど、この関空の対応からは、人命を預かる者としての職業意識が感じられません。緊急着陸の要求を聞いた時点で、救急車を配備しておくという発想がなかったのでしょうか。
この記事を見て、思い出す挿話があります。
1965年12月、米国サンフランシスコ空港を離陸したばかりの日航DC-8「鎌倉号」の第1エンジンが突然爆発する事故がありました。この時の機内の様子は操縦していた加藤常夫機長の著書に詳しいですが、コックピットでは当初、消火作業と事態の掌握のため、管制塔への緊急事態の宣言が後回しにされていました。しかし、空港側では爆発を見て取ると、直ちに周辺空域の飛行機に退避を指示し、全ての滑走路が封鎖されました。日航機から「メイデイ」を受ける頃には既に、どこにでも着陸できる用意が出来ていたのです。一方、エンジン爆発の影響で油圧系統にトラブルを抱えた日航機は、思うような旋回操作が出来ず、サンフランシスコ空港への帰還が微妙な情勢になっていました。ふと機長が目をやると、対岸に別の空港(オークランド空港)が見えてきました。あそこになら降りられる、と咄嗟に判断して管制官に緊急着陸を要求。すると、オークランド空港から速攻で「どの滑走路にも着陸支障なし。救急車、消防車配備済み」との無線が入りました。彼らは彼らで、万一の事態に備えていたのです。日航機は、油圧を失いつつも航空機関士の絶妙な機械操作もあり無事着陸。けが人を一人も出さずに生還することが出来ました。本来は、サンフランシスコ空港の出発管制、空港を出た後の航路管制、オークランド空港の着陸管制はそれぞれ別の組織で、無線の周波数もそれぞれ違うのですが、日航機への負担をかけないよう、周波数変更の指示は一度もなく、余計な質問も一切ありませんでした。ただ無事に帰還させることだけを最優先に、それぞれがその場で自分に出来ることをしたのです。
43年前の米国の対応と、昨年の日本の対応の違いは何かといえば、「コックピット・クルーがプロでも、他の関係者がプロじゃない」ことに尽きるのではないでしょうか。
「日本のプロ野球がジャーリーグに較べてしょぼいのは、選手以外のプロがしょぼいから」という小飼 弾氏の書評を読みながら、そんなことを思いました。