出張で度々インドネシアに行くのだが、首都ジャカルタの空港は「スカルノ・ハッタ国際空港」といい、独立時の正・副大統領の名前を冠している。
 
1602年にオランダ東インド会社がジャワ島に進出し、インドネシア国民は長い植民地支配の圧政を経験してきた。
太平洋戦争が始まると日本軍がオランダを駆逐し、政治犯として拘禁されていたスカルノ、ハッタら独立派指導者を開放した。オランダでは植民地を奪われたトラウマから長い間反日世論が渦巻いたとされるが、彼らは何もネシアで慈善活動をしていたのではない。
 
そして太平洋戦争終結の翌日、ジャカルタ在勤海軍武官府の責任者だった前田精(ただし)海軍少将がスカルノ、ハッタらを公邸に招き入れ、独立宣言を起草させた。
一晩明けて完成したその全文:
「宣言 我らインドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。権力委譲その他に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
 ジャカルタ、05年8月17日 インドネシア民族の名において スカルノ/ハッタ」
05年というのは驚くなかれ皇紀2605年のことである。
 
日本の敗戦により、連合国軍、就中、搾取の限りを尽くしてきたオランダによる再占領が必至の情勢の中、前田少将は敢然と独立を支援したのだった。その後、オランダと 4年以上闘うことになった独立戦争でも、900名とも1万名とも伝えられる旧日本兵が独立軍に混ざって奮戦したという。
そして、前田少将は旅立つ前年の1976年、インドネシア政府から最高勲章の建国功労章を授与されている。
 
国民の多くは戦争を知らない世代になっているだろうが、いまインドネシアを走る自動車の95%は日本車で、街には吉野家やユニクロも並んでいる。
空港につながる道路の真ん中にそびえるスカルノ、ハッタ両名の彫像(アジアの指導者はなぜか巨大な像を好むものだといつも思う)を見上げる度に、70年前の夏の出来事と、我が国の先達のことを思う。
 

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