以前、取引先のカナダ人を連れて広島のお客さんを訪問したら、彼は「中国地方のチューゴクはチャイナと同じ発音だと聞いたが、かの国と何か関係があるのか」と言い出した。そしてお客さんは地元出身にも関わらずその由来を知らず、僕は知っていたのだが(大和朝廷が国土を近国・中国・遠国に分類したと伝えられる)口を挟むのも憚られ、会話は何となく寒々しいものになってしまった。

別の機会に米国人を連れて鎌倉を観光した時、報国寺でお茶を飲んだら落雁の敷き紙に住職の筆による水墨画がプリントされていた。僕は住職の英訳が分からず、駅長がStation MasterだからTemple Masterと見当で口にしたら分かって貰えた(後で調べたら住職や宮司はChief Priestが正解らしい)。その後、小町通りに甘栗屋があり、俄かに単語が出てこずフランス語でマロンと言ったら通じた。

然るに大事なのは、正統な英語表現でなくとも伝えられること、相手の興味や関心、ニーズをつなぐことであって、TOEICのスコアが幾つだろうと、訳語を知っているだけ、俺英語できる凄いだろ、ではコミュニケーションは成立しないんじゃないか。

何だか当たり前のことを言っているようだけど、ルックスが良くないのに異性にモテる人、なぜかお客さんに可愛がられる営業マンがいたりする一方で、勉強の成績は優秀なのに仕事の段取りが残念だったり、経歴を見ればモテる要素が沢山ありそうなのに異性に全く縁遠い人がいるのには、それなりの理由があるんだと思う。

俺はこんなにガンバってるのに、勉強ができるのに、と嘆いたり他人を妬んでも詮無い話。スキルとセンスは別物であって、自分に足りないものがあるって認めることが大事なんだろう。俺の長所だけを見て崇めろなんて強要する輩は誰にも相手にされまいし、人間である以上、短所や欠点はゼロにはならないけど、それを減らす努力はできるだろうから。
 

センスは「ある」ものではなく「磨く」もの おしゃれ方程式
青木 貴子
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