本田技研の創業者、本田宗一郎が天皇陛下から勲章を賜ることになった。
が、「技術者の正装は白いツナギ」と、工場に居るのと同じ服装で参内すると言い出した。
「オヤジさん、やはりモーニングでないと」
「じゃあ行かねぇ」
最終的には周囲の懸命の説得に折れ、周囲と同じ正装に身を包んだ。
1980年代半ば、F1でターボエンジンに対する規制が始まった。ルノーやBMW、ポルシェが勝っている間には何も言われてはいなかったのに、ホンダが勝ち始めた途端に規制が取り沙汰されるようになり、言わばなし崩し的にターボエンジンの段階的廃止(燃料・過給圧の制限を経て、1989年から自然吸気エンジンに移行)が決められていった。
こうした動きに憤慨した現場の責任者は、ホンダは抗議の撤退をすべきではないかと思いつめ、宗一郎に面談を申し入れた。いわば直談判であった。が、オヤジさんは応接室に入るなり、
「F1でターボが禁止されるらしいが、これはホンダだけが禁止なのか? ん? 違うのか。バカなやつらだ。ホンダにだけ規制するというのなら賢いけど、同じルールで一からやり直しだって言うんなら、ホンダが一番速くて最高のエンジンをつくるに決まってるのにな。で、何だ、話ってーのは?」
「あ、いや、すいません。何でもないです」
責任者たちはすっかり嬉しくなってしまったという。その後ホンダは、宗一郎が鬼籍に入る1991年まで毎年チャンピオンを獲り続けた。
副社長として本田技研を経営面から支えた藤沢武夫は風流人として知られ、着物姿で出社することも珍しくなかった。ある日、やはり着物で社内をうろついていたところ、掃除のおばさんに「関係者以外は立入禁止だよ」とたしなめられた。藤沢は笑顔で、「これでもここの社員なんですよ」と答え、おばさんがこの顛末を上司に報告すると、「バカ、それは副社長だ」ということになり翌日慌てて謝りに行くと、「いやいや、こんな格好でふらふらしてる私の方が悪いんですよ」と答えたという。そして、そのやりとりを見ていた作業服を着た老人がゲラゲラ笑いながら「俺もネクタイしめた方がいいかな」などと藤沢に語りかけていたので、誰だろうと思っていたら、そのじいさんが本田宗一郎であったと、おばさんは後で知ったという。


ほんだ・そういちろう (1906?1991)
本田技研工業創業者
ふじさわ・たけお (1910?1988)
本田技研工業副社長

本田宗一郎と藤沢武夫に学んだこと―「主役」と「補佐役」の研究
西田 通弘
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