朝5時50分に起床。眠いが何とか仕度を整えてチェックアウト。まだ陽が昇りきっていない。タクシーで空港へ。ANA882便に乗り帰京。前日、取引先の方が「朝イチの便は混んでないっスよー」と言っていたのだが、実際にはほぼ満席。この便に乗れば東京で丸一日仕事が出来るから、それなりに需要があるのだろう。9時前に羽田に着き、10時過ぎに出社。午後、所用で会社を早退。19時過ぎに帰宅。長い一週間が終わる。
a Division of Clichés.net Nobutaka Mizuno's Diary
朝5時50分に起床。眠いが何とか仕度を整えてチェックアウト。まだ陽が昇りきっていない。タクシーで空港へ。ANA882便に乗り帰京。前日、取引先の方が「朝イチの便は混んでないっスよー」と言っていたのだが、実際にはほぼ満席。この便に乗れば東京で丸一日仕事が出来るから、それなりに需要があるのだろう。9時前に羽田に着き、10時過ぎに出社。午後、所用で会社を早退。19時過ぎに帰宅。長い一週間が終わる。
朝7時半起床。テキパキ支度をして普段会社に行くのと同じ時刻に家を出る。バスで羽田空港に向かい、フライトの時間までエアポートラウンジで過ごす。現地でゆっくりお昼を食べる時間がないと思い、空弁を買っておく。ANA885便で富山へ。珍しくB767ではなくB777-200。機内で弁当を頬張る。気流の乱れから、着陸が若干遅れる。空港からタクシーで急いで市内へ。午後イチにお客さんとミーティング。あまり実のない話でわざわざ出向く必要があるのかも分からないが、面と向かって話をする機会を持つのも悪い話ではない。夜の会食まで時間が余ったので、思い立って藤子不二雄の故郷、高岡まで足を伸ばすことにする。急行形電車のボックスシートに座り、約20分で高岡に着く。目抜き通りを歩くと、いきなり文苑堂書店が眼に入ってくる。昭和25年1月、ここで藤子の二人は『漫画少年』との出会いを果たし、漫画家への道筋を決定的にした言わば伝説の地だが、入ってみると何でもない普通の書店で、3階建ての店内には文房具や学習書も揃っている。コミック売り場を見ても、特に藤子コーナーがあるわけでもなく、大漫画家との関わり合いを示すものは何一つない。この純朴さが嬉しい。何も買わずに出て行くのもナンなので、かねて買おうと思っていた文藝春秋の『日本の論点』を購入。高岡大仏、古城公園、そして射水神社を巡る。神社には二人が相撲を取って遊んだ土俵も残っている。参拝し、おみくじを引くと見事大吉。『まんが道』では主人公の2人ともが凶を引き、後の挫折を暗示するシーンになっているのを思い出す。公園に掛かる橋で「涼子さんの馬鹿ーっ!! 僕の応援団長になってくれるって言ったのにーっ!!」と叫びたい気持ちをこらえて藤本(藤子F)先生の実家のあった定塚町へ向かう。家の場所までは特定出来なかったが、ドラえもんの原風景とも言える空き地があったりして微笑ましい。二人の馴れ初めの地である定塚小学校を遠目に見る。スーツ姿の人間がデジカメを片手に小学校をウロウロしていたら、通報されること請け合いなので長居はしない。その後、桜馬場通りを歩いて我孫子(藤子A)先生の住居跡を探す。現在はデリカビルという建物になっていると聞いていたが、果たして駅の近くに発見。駅まで戻ると、まだ時間に余裕があったので、高岡郵便局の場所を調べてみるとさほど遠くないことが分かったので歩くことにする。商店街に和菓子屋が散在し、何れもどら焼きを扱っている。もともと地元の名産なのか、それとも地元が生んだ漫画にインスパイアされてのことなのか分からない。どら焼には魅力を感じなかったが、商店街の外れの路地にたい焼屋があり、日が暮れかけて身体も冷えていたので買い求めることにする。「ひとつでも売ってくれますか?」と聞くと、方言の早口で言葉を返されサッパリ分からない。とりあえず笑顔で包んでくれてたのでムシャムシャ食べる。美味しい。暫く歩くと高岡郵便局を発見。建物は巨大なビルに変貌してはいるが、かつて二人が原稿を郵送したり、稼いだ原稿料を「公金」と称して共同貯蓄するのに利用していたところである。まだ窓口が開いていたので富山県限定の切手を買ってから駅に戻る。富山に戻る電車の出発5分前だったので切符を買って乗り込む。藤子A先生は毎日このホームから富山新聞社まで通っていたのだなぁと思っていると電車は帰宅ラッシュに重なり混み始める。とはいえ東京の比ではなく、無事に富山に戻る。僅かな時間だったが見学できてよかった。今度はゆっくり見て回りたい。夜、取引先の方と会食。駅近くの「昌五郎」で鮨を食べ、酒を飲みすっかり満足する。23時頃ホテルに戻る。
朝5時半に起きて身支度。6時過ぎにロビーに下りてカナダ人たちと合流。7時ちょうどののぞみ号で岡山へ。素早く乗り換えてマリンライナーに乗車。先頭車両は2階建てで、2階がグリーン車、1階が指定席になっている。そういえば、生まれて初めて瀬戸大橋を渡ることに気づく。この橋の完成記念式典の席で、当時運輸大臣だった石原慎太郎が、当時の皇太子ご夫妻(現在の今上天皇、皇后両陛下)から、小笠原諸島の環境保護に関するお考えを遠まわしに表明され、殿下直々に「どうかよろしく」とお声をかけられて恐懼したという話を思い出す。定刻に高松駅に到着。典型的な頭端型のホームで地下通路も跨線橋もない。このシンプルさが嬉しい。会議までやや時間があったので、駅前の全日空ホテルで軽く打ち合わせ。ジュースだけ飲む。客先まで歩いてミーティング開始。3時間近くに及んだが、概ね和やかなムードで進み、大きな懸案のひとつが解決して安堵する。駅まで戻り、若いアメリカ人が「ハンバーガーを食べたい」というのでロッテリアで昼食にする。そういえば、全国見渡しても、顧客の会社の回りにはハンバーガー屋が少ないように思える。マリンライナーとのぞみの乗り継ぎで新大阪へ。すぐさまタクシーに乗って中之島のお客さんのところへ急ぐ。15時から4時間以上に及ぶミーティングをこなし、ヘトヘトになる。夜、北新地の「四音」で夕食。昔ながらの日本の繁華街の賑わいを残している通りだなぁと思う。
朝7時半に起床。この週末にゆっくり休んだせいか気分は良い。いつも通り出勤して粛々と仕事。昼休みに会社を出て茅場町の銀行へ。所用を済ませて近所の吉野屋で昼食。急いで会社に戻り何とか昼休み時間に収まる。午後も仕事を一つ一つ片付けてゆく。やはり睡眠をたっぷり取ったせいか集中力が持続する。大阪に向かうため、19時には会社を出て新幹線に乗る予定でいるのだが、日が暮れてから思わぬ社内手続の仕事が舞い込む。しかしながら、バックオフィスの担当者の迅速な対応があり出発前にスンナリ片付く。この人の仕事のスマートさにはいつも感服するばかり。ともあれ感謝して会社を出る。19時26分発ののぞみ149号に乗り新大阪へ。新大阪から在来線の各駅停車に乗り換えて隣の大阪へ。やってきた電車は、あの事故を起こしたのと同じ207系。ほぼ直線だからオーバースピードがあっても脱線はしないだろうと自分で妙な理屈をつけて乗車。果たして何事もなく大阪へ。ホームに降り立つと、学生時代に鈍行列車の乗り継ぎでここにたどり着き、今はなき急行「だいせん」に乗って出雲大社を参拝したことを思い出す。あれから11年も経った。改札を出ると、以前は只のコンビニだった店がすっかりオシャレなつくりになっており、ICOCAの電子マネーも使えるようになっているのでお茶を買ってからホテルへ。相変わらず派手なつくりに圧倒される。部屋に落ち着き、風呂に入って眠る。
朝から引越屋が来る。実際に部屋を見てもらい、費用の見積もりをしてもらう。単純に計数を積上げた価格から、かなりの値引きがあったので、その場で申し込むことにする。担当者の裁量で値段を決められてしまうものなのだなぁと感心する。交渉成立と相成ったので、段ボールやテープなどの梱包用品をたくさん貰う。にわかに引っ越しムードが漂う。当面読まない書籍を詰め込み始める。早起きしたので一日が長く感じられる。昼過ぎに、近所の喫茶店で軽く昼食。前から気になっていたが、妻共々一度も入ったことがなかったので試してみる。果たして、店は静かで食事も美味しく満足する。その後、近所のスーパーで買い物。写真の現像を待っている間にあちこち見て回る。久しぶりに自宅で夕食。
眠たい中、羽田空港に向かう。昨日終わらなかった仕事があるのでバスの中で必死に書類をつくる。忙しいというよりも、一日の限られた時間で効率的に物事を捉え考えて、それを行動に移すというプロセスを上手く実践できないだけなのだと自覚している。ともあれ、お金で時間は買えない。時間が足りないことだけはどうしようもないので、やるべきことをやる。それにしても、毎日自宅で夕食を食べられるくらい早く帰宅していたり、平日の夜に毎晩のように飲み歩いたり出来るほど時間が余っている人たちに限って「忙しい」をしきりに連発するのはどういうことなんだろうと思う。ふざけて「死ぬー!」とか叫んでいる人間が、死そのものとは程遠いのところにいるのと同じということなのか。ともあれ、各人の基準というものがあるだろうから深く詮索しても結論など出る筈もない。いつものようにエアポートラウンジに行き、バスで仕上げた書類をメールで送る。全日空247便はB747-400で、久しぶりの2階席。コックピットのドアに電子ロックキーが備わっており、またドア自体も金属の補強材が貼られて簡単に開かないようになっている。ハイジャック犯に機長が飛行中に刺されるという前代未聞の事件がこのダッシュ400型で起きていることを忘れるわけにいかない。だが、減圧が起きた場合を考慮して、コックピットのドアは簡単に開くように設計されていると聞いたこともある。果たしてどちらを優先すべきなのか。強い向かい風とのことで、到着時刻が10分ほど遅れる。空港から市営地下鉄で天神に向かう。いつもタクシーで客先に直行するので地下鉄は初めてだが確かに便利。地元のラーメンでも食べようかと思ったが、午後の会議で話す内容を考えたり、メモを取っておく必要があるのでハンバーガー屋にする。渡辺通まで歩いて、久しぶりにお客さんを訪問。新しい担当の方と名刺交換。一人で来た若造を温かく迎えていただき安心する。観光でも仕事でも、九州に来て嫌な思いを一度もしたことがないのは、こうした人間の温かみと無縁ではあるまい。2時間弱ミーティングをして、再び天神まで歩く。洒落た店が次々と出来ている。空港まで地下鉄に乗り、土産物を整えてからANA260便に搭乗。B777-200はスターアライアンスカラーが施されているが、中にいる限り違いは分からない。帰りは追い風の筈だが、気流が乱れているらしく、途中客室乗務員がエプロン姿のまま着席する。よほど揺れるのかと覚悟していたが、案外小さな揺れで収まる。羽田空港に5分遅れで到着し、リムジンバスで19時過ぎに葛西に戻る。妻に出迎えられ、スシローで鮨を食べて帰宅。
昼過ぎに家を出て、葛西駅近くのカレー屋で昼食を取り実家へ。車を借りて妻とドライブ。久しぶりに浅草に行くと、仲見世をかっぽれの一行が練り歩いている。奉納の舞らしい。浅草寺に参拝してから「アンジェラス」で一服。ぶらぶら散歩して、新宿に移動。ルミネ地下の「ゲウチャイ」でタイ料理にする。前々から興味はあったが入ったことがなかった。美味で満足する。店にプミポン国王と思しきご真影が飾られていたので店員に「あれは国王陛下ですか?」と訊くと、「アア、タイノオーサマ!」と肯んずる。店を出た後、妻と別れて大学の友達の披露宴二次会に参加する。会場の住友ビルの場所はよく分かっていないのだが、西新宿は駐車場の案内標識が過剰なまでに充実しているのですぐに辿り着く。新郎新婦の到着が遅れるハプニングはあったが、幸せそうで安心する。いつまでも幸せであって欲しい。深夜に帰宅。
地下鉄で明治神宮前へ。妻の友人に久しぶりに会う。以降と南青山まで歩く。このあたりの幼稚園に通っていたので、地理には明るい。「天青」で天ぷらを食べる。セントラル青山にこんな料理屋があることに驚いたが、美味なので安心する。妻の友人の友人と落ち合う時間まで余裕があったので、ベルコモンズを冷やかす。ここにくるのは、幼稚園時代に母に連れてこられて以来23年ぶりかも知れない。キラー通りにある幼稚園に通っていたなどと言うと、傍目には気障に映るものかも知れないが、当人にしてみればその当時に選択の余地があったわけでもなく、そういうことをとやかく言う輩がいるとすればそれは一種の田舎者性でしかないのだろう。外苑前の駅で先方と合流し、妻の友人がパティシエをしているケーキ屋に向かう。喫茶コーナーで美味しいお菓子を堪能し雑談する。日が暮れる頃お別れして妻と渋谷まで歩く。「味源」で久しぶりに味噌オロチョンを食べてから帰宅。
社長夫人の東京観光にアテンドするため、同僚とともに朝からホテルニューオータニへ。道中、同僚が「水野さん、あのレンガづくりの建物何ですか?」と訊いてくる。「ああ、あれはもとの近衛師団の司令部。今は美術館か何かになってる筈だけど。近衛師団ってのは天皇陛下直属の軍隊で、そこの乾門で衛兵交替をしていたんだよ」と説明する。我ながら変な知識だけは豊富にあると思う。社長夫人と合流して、両国の江戸東京博物館に向かう。初めて見るがなかなか面白い。その後、銀座の資生堂パーラーで昼食。11Fのラウンジならば軽食が取れて空いているというのでそこにするが、確かに静かで眺めも良く過ごし易い。化粧品のシセイドーは知っていたが、レストランを経営しているとは面白いとのこと。その後、源氏物語の本が欲しいとのリクエストに応えるべく銀座のブックファーストを覗くが、洋書の品揃えが悪くあいにく置いていない。僕自身は急遽オフィスに戻ることになったので、同僚に後事を託して地下鉄に乗る。会社で書類づくりに勤しむ。夕方、同僚がオフィスに戻る。本は日本橋の丸善にあったらしい。安心する。日付が変わる頃帰宅。
朝7時過ぎに起きる。10時前にホテルを出て、のぞみ7号で広島に向かう。同じ車両に修学旅行生と思しき児童が大量におり、うるさくてたまらないのでiPodで気を紛らわせる。昼前に広島に到着し、全日空ホテルにチェックイン。昔はクラシックな趣きだったが、最近リニューアルしたらしく、ずいぶん雰囲気が変わっている。ホテル内のレストランがどこも満席だったので、近くにあるUCCのコーヒーショップで軽く済ませる。社長ご一行が客先を訪問している間に、僕は社長夫人を連れて平和記念公園へ。原爆の子の像や原爆ドームを見せて資料館を見学する。あまり知られていないことだが、リトル・ボーイには日本製の八木アンテナが装着されていて、もっとも効果的に被害をもたらす高度600mで爆発するようにリモート・コントロールされていた。15年前の湾岸戦争で、日本製の電子スコープのおかげで砂漠の地上戦における多国籍軍の被害が最小限に済んだ話は一部では有名だが、戦争における日本製品の優秀さは皮肉なことに、60年前に既に実証されていたということになる。戦争は勿論ない方が良いに決まっているが、いつか我が国は米国に復讐をしなければならない時が来るだろうと、ただぼんやりと何の根拠もなく思う。見学後、社長夫人と近所のスターバックスで一服。ホテルに戻った後、ひとりでアーケード街まで歩いて地元の土産を買う。夜は「半べえ」でしゃぶしゃぶ。地元の牛肉とのことだが、非常に美味しい。文字通りたらふく食べて満足する。