昼過ぎに家を出て飯田橋へ。ラムラのぼでじゅうで昼食の後、慣れ親しんだ道を通って靖国神社へ。そういえば昨年も同じルートを歩いた。靖国の桜はまだ咲き乱れる程ではないが、それだけに無粋な花見客も少なくゆっくり散策する。ところどころに、戦友同士で植えた桜があり、部隊の名前と連絡先の書かれた札が下がっている。本殿に参拝しようとすると物凄い行列で警備員が整列を促している。偶々花見ついでに来た方が大半なのかも知れないが、並んでいると、「いいかい。この神社ではお願い事をしちゃいけないんだよ。日本のために戦ってくれてありがとう、ありがとうってお祈りするんだよ」と、近くで諭す声が聞こえる。こういう人だかりや、国民ひとりひとりの声は、テレビではあまり放映されないのだろうと思う。参拝後、遊就館を見学。昨年は1階部分の零戦しか見なかったのだが、今回は全体を見て回る。かねて見たいと思っていた阿南大将の血染めの遺書は、保存のためか原寸大写真のみが展示されていたが、「一死、以テ大罪ヲ謝シ奉ル 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」の文字は力強く、いささかの乱れもない。また、別紙にしたためられた辞世の句「大君ノ深キ惠ニ浴ミシ身ハ言ヒ遺スへキ片言モナシ 陸軍大将 惟幾」の署名が先の遺書とは異なっている。これは、半藤一利の説によれば、遺書には陸軍を代表して本土決戦を主張し、和平を望む天皇陛下に背いたその責任を明確にするために、職名とフルネームを記し、一方で、侍従武官を務め陛下からの信任の厚かった阿南個人は、その忠誠心にいささかも揺るぎがないことを表明するために、かつて陛下と2人きりでのお食事を賜った栄誉に感激して詠んだ歌を辞世とし、一軍人、一臣下として階級とファーストネームだけを記した、という。最近の歴史書の一部には、阿南を頑迷な徹底抗戦論者と見立てる記述もあると聞くが、実際に抗戦したければ、軍部大臣現役武官制の当時、阿南自身が辞表を出してしまえばそれで鈴木貫太郎内閣は瓦解し、思うがままになっていた筈なのである。それを敢えてせず、徹底抗戦の決起を促す若手将校を抑えつつ、ポツダム宣言受諾の詔書に淡々と副署して、それであの2種類の遺書をしっかり書き残して腹を切るというのは、よほどの深慮なしに出来ることではあるまい。神社を出た後、旧日債銀の跡地に出来た北の丸スクエアにあるスターバックスで小休止。帰宅後、また仕事の続きに取り掛かる。いつものように「功名が辻」を見て、また仕事。0時過ぎに眠る。